冨山房創業者である坂本嘉治馬と早稲田大学のつながりは、生涯の師であり恩人の小野梓からの縁です。
小野梓は、高知県宿毛の同郷の雄であり、大隈重信とともに東京専門学校、現在の早稲田大学を創立した人物です。
坂本嘉治馬は、小野梓が1883年(明治16年)に開業した東洋館書店に奉公をしました。
1886年(明治19年)1月、小野梓は、多くに惜しまれつつ早すぎる逝去をしました。その時、坂本嘉治馬は、彼の偉業を引き継ごうと心に決めました。
坂本にとってこれは、「生涯忘れることの出来ない運命の岐れ路」となりました。
小野梓の義兄である日本鉄道会社社長、小野義真に資金援助を仰ぎ、
小野梓が亡くなって1か月半後、現在の神田神保町に同年3月1日、東洋館書店を継承する書店冨山房を開業しました。
小野梓は、亡くなる直前まで、大隈重信、高田早苗らとともに早稲田大学前身東京専門学校設立し、
国家の未来を思い、「学問の独立」をさせるべく尽力しました。
坂本嘉治馬は、その小野梓がかけた教育への情熱にも傾倒し、早稲田大学に惜しまず助力をしてきました。
社業では、小野梓門下の高田早苗・天野為之らの書籍を数多く刊行しました。
のちに大隈重信は、このように語り、小野梓が着手した教育事業と出版事業の発展を確認しました。
「政治上に於ては、梓君が我輩等と共に力を尽したる国会は開設せられ、
其著国憲論は世に出でて、其精神を伝え、以て帰向に迷った人心の蒙を啓き(ひらき)、
教育上に於ては梓君の心血を注いだ東京専門学校が、今や大に発展して早稲田大学となり、
早稲田大学は第二期の発展をなさんとして居る」、
「梓君が書籍屋の番頭になって、経営されたる東洋館は、今其一は冨山房となり、
其一は早稲田大学出版部となって現存して居る」。
「東洋学人を懐う」(大隈重信)より。
1935年(昭和10年)、坂本嘉治馬は、小野梓没後50年記念の折、早稲田大学へ当時の貨幣で一万円を寄付し、小野梓奨学基金が作られました。
同年11月に、小野梓胸像も寄贈し、早稲田大学の大隈庭園に立てられ、その除幕式が行われました。
2005年(平成17年)、早稲田大学は創立125周年にあたって、小野梓記念館(27号館)を建築しました。
その際、坂本嘉治馬が贈った小野の胸像は、この建物の階段を下りた地下一階に移り、
小野自らが理想とした日本の姿を仰ぎ見るように、大隈講堂を望む位置で、早稲田で学ぶもののゆくえを見守っています。
小野梓が発した「学問の独立」のメッセージは時代を超えて早稲田の精神であり続けています。
小野梓が亡くなって130年余、このストーリーは、
全て弊社刊行書籍「小野梓-未完のプロジェクト」(大日方純夫著)で綴られています。
小野梓没後132年間は、弊社創業132年と積み重ねた年月であります。
坂本嘉治馬は、社業とともにその意思を継いで、早稲田大学の発展に寄与したとして、
早稲田大学の「校賓名鑑」に幾多の偉人賢人と並んで継承されています。
小野梓の遺訓である「益世報效」(えきせいほうこう)。
一代、恩に報いて深く考え、社会のために力を尽くす。
この言葉を社是に掲げ、名著と呼ばれる多くの書籍を刊行し、明治150年の2018年の今もその志のもと、未来を創る書籍を社会に送り出しています。
1936年(昭和11年)、冨山房創立50周年で坂本嘉治馬はこのように挨拶しています。
「ただ私は鈍である。原稿が何年かかってもあまり気にしないでできるまで待っている。
そうして3度の火災にあっても原稿はどれも無難で災厄をまぬがれ、まことに運が良かった。
また健康であった、病気をしたことがあまりなかった。
つまり私のとりえはこれだけであったのであります。
丈夫であるということ、根気がよく気長く、飽きずにやる、それに運がよかった。
こういうことで歩いてきたのであります。」
参考文献:「小野梓-未完のプロジェクト」(大日方純夫著)
「東洋学人を懐う」(大隈重信著)
「小野梓君追懐談」早稲田学報157、1907年3月※
「東洋館から冨山房へ」冨山房※